株式会社 河野製作所

CROWNJUN
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平成23年1月1日(火) 東医協広報VOL.196
  おじゃまします
 河野淳一さん
  株式会社 河野製作所

  − ご出身地は?
河野 生まれてからずっと千葉県市川市曽谷です。会社のそばになります。
− 何年生まれですか。
河野 昭和38年生まれです。東医協ユースアップの会では同年代が多いですね。
− 会社の代表になったのはいつ頃ですか?
河野 平成9年の終わりぐらいです。私で4代目になります。祖父が創業し、その後に叔父が2代継いでいます。父は専務の時41歳で亡くなったので父の姉の夫である叔父が後を継ぎました。
− 会社を継ぐために何か勉強されたことは?
河野 大学の時に、ボストンで経営学を勉強するため2年間留学していました。6年間大学生活をしていたことになりますね。卒業後、損害保険会社に入社し3年間働いていました。すぐに会社を継ぐというレールがあったのですが、反発して損害保険会社に入ったら継がなくて済むだろうと思っいました(笑い)でも、結局はものづくりと経営をやりたくなった時期と会社から望まれていた時期が重なり継ぐことになってしまいました。
− 会社についてお伺いしたいのですが
河野 昭和24年に千葉の市川で創業しました。当初は計測機器用指針を製造するメーカーでしたが昭和39年から、医療用具の製造を始めました。15年ほど前に本郷に営業所を作りました。
− 従業員数は?
河野120名ぐらいになります。
− 創業60年の老舗メーカーですが、新しい製品の開発にも積極的に取り組んでいますよね。
河野 創業時は精工舎出身の祖父が下請けで計測機器用指針を製造していました。その後医療用の針糸のメーカーとして現在に至っています。実は、私の時代になってから既存製品の70%が変わりました。例えば同じ針糸でも70%ぐらい変言 わってしまいました。これまでは心臓血管外科とか一般外科は売上がゼロだったのですけれども、今はそれがほとんどです。心臓血管外科を対象にした微細なマイクロサーシャリ一等といった付加価値の高い製品は、どちらかというとこれまでは外資系の会社が強かったです。今では、なるべくそういう付加価値の高い製品の販売・開発に品目がシフトしていっています。
− 新しい製品を開発してくうえで一番苦労したことは?
河野 はじめは医療先進国と言われていた海外の製品にとって代わるものを作れないとか、代われるはずがないという固定観念があり、そういうものを作って出しても売れるかどぅかは分からないからです。例えば、小さな会社が大手の市 7場に参入する時に、通常なら不可能ではないか社内的には考えてしまいます。それを説得して会社の方向性を変えていくには、創業62年の古い会社ではなく、“技術開発型ベンチャー企業”だという意識改革に一番苦労しました。
− 実際にお使いになる先生方のニーズは、どんな形でヒアリングしているのですか?
河野 当社の営業とドクターとのつながりがいちばん大きいですね。営業の情報をもとに企画開発部門と技術部門が製品化の可能性を探ります。その辺は特徴があると思います。
− これだけの技術の最先端をいく製品ですから、相当に細かなニーズに対応していくとなると、やはり人を介してというわけにはいかないのですね。
河野 やはり使われているシーズまたはニーズを持っている先生方と話をして、スピードを速めて綿密に対応するためには直接行かないとなかなか難しいかなと思っています。
− 生産拠点はどちらになりますか?
河野 つくばと市川に工場があります。つくばの工場では現在、38名が働いています。つくばといっても水海道と下妻の間の常総市です。千葉の市川から茨城方面は意外と近いです。元々、祖父が茨城の東海村の出身なので、そういった縁もあって非常に身近に感じました。
− つくば工場はガラス張りでとてもモダンな感じですね。
河野 品質のいいものを作るためには、外から見た感じも重要かなと思いました。機能的に言えば、工場は余分なガラス張りなどする必要はまったくないのですけれども、品質のいいものを作るということを考えたときには、工場の外観やデザインもやはり重要な要素になるのではないかということで、ハード面もこだわりを持ってやりたいと思いました。つくば工場がある意味では量産ものの工場になっています。もう一つ工場があるのですが、そちらはセル方式で、ある意味では非常に多品種少量で細かいセル生産に合うような、要するにマイスター的な人材を集めた工場になっています。どうしても製造品というのは、必ず生産効率などを考えるのですけれども、やはり医療現場のニーズは細かくて、こういうものが欲しいということが意外とある。そういうものに対応できる工場も必要だと思って、量産ものの生産工場ともう一つはセル方式にして、現場のニーズに1個でも作っていけるような工場の二つをセッティングしようと思っています。市川の工場が元々職人集団だったので、セル方式の生産に向いたサンプルや微細製品、開発製品用にして、つくばの工場は量産品を作っていきます。今後いろいろな現場の細かなニーズにすべて対応するためには二つの特徴をもった工場が必要と思っています。同じ工場でやると非常に非効率的になるので、工場を分けています。
− 細かなニーズに対応するには“職人’’の技術が不可欠なんですね。やはりベテランの方が多いのですか?
河野 私が最初に入ったときには平均年齢は50歳代でしたけれども、いまは30歳代です。もともとは50歳代の平均年齢だったので、皆さん定年を迎えて世代交代がとてもスムーズにいったと思います。
− 技術の継承はスムーズにできましたか。
河野 それは大変でした。技術を掠っている方というのはなかなか教えないものです。「誰か継承する人がいるか」というと「いない」というのです。教えてくれと言っても教えないです。昔の人は「見て覚えろ」で教えない、「引き継ぎもできない」と言われてしまいます。それだと技術は途絶えてしまうしできないということで、若手が中心になって自分たちでデータ化して、今ではある程度、誰がやってもできるように自動化・標準化を進めているところです。
− 海外展開も考えていらっしゃるそうですが?
河野 現在は中国での製品の開発・販売を考えています。やはりマーケットの大きさが一番の魅力ですね。ニッチな製品ですから日本だけでは限界があります。医療技術の面でもこれから発展していく国ですから、ドクターたちの数も増えるでしょうし、新しい術式なども考案されると思います。そうしたドクターたちの要望に応えながら新たな製品を作り上げていける土壌があるのではないと感じています。
− 海外進出はどのくらい進んでいるのですか?
河野 まだ販売実績はありません。今は同時進行で承認を取っている段階です。上海に現地の販売・製品開発会社を作って、中国人5名が日本にいて承認待ちです。
− 生産を海外に移すことは考えていますか?
河野 考えていません。基本的には開発のシーズは中国でもアメリカでも東南アジアでもいいと思うのですが、製造技術は日本でしないと何も残らないではないかという危機感があります。価値を創造するコアな部分に関しては日本で作っていきます。どこでもできるようなアセンブリーなどのところに関しては、将来的な展開としては中国、ベトナム、タイなど将来の市場となるところで作っても別にまったく問題ないと思います。日本のものづくりで海外で価格競争に巻き込まれる製品に勝算はないので、価値の創造のプロセスのところは日本に残しておいてメイドインジャパンの製品を作りたいですね。基本的に海外の方は工場というより、製品開発をするシーズを見つけに行く場所だと考えています。日本のドクターもそうですけれども、中国のドクター、海外のドクターと製品開発をしていくための情報収集のための拠点を作っています。
− やはりレギュレーションはそうとう厳しいですか?
河野 厳しいですね。毎月のように担当者が北京に行ってやっていますが、いつ取れるか分からないです。基本的には海外展開を始める前に社内を国際化しようという感じで、人材を国際化して、いまは海外展開の準備をしている段階です。
− 人材登用はどんな形で?
河野 現在東京の事務所の社員の3分の1が中国人やマレーシア人、帰国子女で、日本人のメンタリティよりは外国人のメンタリティを持った人間を入れています。社内にどんどんそういう人材を入れていって、いまは3分の1ぐらいですけれども半分ぐらいまではそういう人材にしようと思っています。
− そのスタッフの方々は外に向けての営業展開のための要員ということですか?
河野 そうですね。現状は日本の営業と海外の事業の立ち上げをやらせていますけれども、基本的には日本をベースとした人間として育ってもらいたいので、そういう人間を育てて中国など海外に派遣していくという形になると思います。いまは、ある意味で会社のカラーや日本の商習慣に馴染ませて教育している段階です。社内では「いい加減、日本人を入れてください」「勘弁してください」と言われるのですけれども(笑)、やはり全然メンタリティが違います。
− 職人さんたちとのコミュニケーションはうまくいきますか?
河野 基本的には全部、日本語でできるように日本語が話せる人材を採っています。社内的には、やはりそういう異文化を吸収するためにも日本語と英語とか、日本語と中国語とか2カ国語ぐらいの日常会話程度はできるようにしたいと思っています。2カ国語を勉強してくれれば、お互いのコミュニケーションがかなりできると思います。今後は社内で勉強会を開催して、英語や中国語、日本語などそれぞれが語学を教えあう場を作るつもりです。お互いの文化についての理解も深まるでしょうし、よいコミュニケーションになると思います。
− 海外進出は難しい一面もあると思いますが
河野 海外展開を考えたとき中国一国だけやるというと無理です。必ずどこもカントリーリスクがあるので、シンガポールとか東南アジアと中国は同時進行で拠点を持たなければいけないと思ってます。シンガポールに拠点を作るのでマレーシアの華僑の人間にも入社してもらいました。アジア圏全体をいちおう把握しておかないと、中国の出方も分からないし、欧米の出方も分からない。中国をやるときには、同時に東南アジアもやっていかないと中国の方のビジネスも判断が難しくなりそうです。周辺諸国のパワーバランスがとても大事だと思います。
− グローバルな視点をお持ちなんですね。それは海外留学の経験から生まれたものですか?
河野 外から日本を見ることができるということと、異文化または国籍の違う人と暮らすことによって、いろいろな考え方があるということを学んだことは大きいと思います。市場を見ていると日本だけではなく、日本は市場の一つであって、東南アジアもヨーロッパもアメリカもいろいろなところがあるというように、視野の壁がなくなります。客観的に日本で報道されている情報というのは非常に偏っていて、海外から取り入れた情報と日本で報道されている情報と意外と違うことがあります。そういうことが分かったので、日本でマスコミが言っていることと中国やアメリカで言われていることを多角的に見ることができるようになりました。あとは人脈という面で、日本人同士得 だけではなく、いろいろな国の方ともこだわ。なく付き合えるようになったということがあります。それは言葉が話せなくても、スペイン人だろうがドイツ人だろうが考えていること価値観はだいたい同じような感覚で理解できる、そういう異文化とか異国に対しての壁があまりなくなったというのはあります。日本に対しても日本の良い所もあるし、悪いところもあるという客観的な見方が分かったということが一番大きかったです。
− とてもお忙しそうですが、お休みの日はどんな過ごし方を?
河野 1日は子どもとで遊んだりして家族と過ごし、1日はゴルフです。映画も観に行きます。
− スポーツがお好きだそうですが
河野 ゴルフ・テニス・スキーを趣味でやっています。学生時代はずっとテニスでした。高校生の時、短期的にテニス留学をしていました。カリフォルニアのサンノゼという所で、北カリフォルニアの選手の合宿に3カ月間参加していました。その当時のアメリカのレベルは、ものすごく高かったです。この当時は、日本ではまだ筋力トレーニングが主流ではなかったのですが、ジムに行ってマシーンで筋トレをやっていましたから、そういう意味では非常にスポーツで進んでいる有名なところでした。それで、こてんぱんにやられて、もう無理だと分かったので、スポーツは趣味として楽しんでいます。
− ゴルフはいつごろから?
河野 この業界に入って、誘われて始めました。本格的に始めたのは35歳です。負けっぱなしでした(笑)。テニスは地方の選手権などに出ていたのですが、35歳ぐらいになって学生にまったく敵わなくなってしまって、テニスはやめようと決心しました。それから、ゴルフも競技に出たかったので競技ゴルフを始めました。それまでは誘われて、仕方がないから行くという感じでした。
− 所属はどちらですか。
河野 袖ヶ浦カンツリークラブです。今年、関東倶楽部対抗で優勝しました。今も、競技志向でやっています。浜野ゴルフクラブのクラブチャンピオンシップでの優勝は4年前で、袖ヶ浦ではハンデキャップは“2”です。袖ヶ浦の選手の中ではまだ一番下のほうで、トップの方々はハンデはプラス2とかプラス3です。日本アマとかも出られているのでまだ本戦は補欠です。
− 仕事にスポーツにと、多才ですね。
河野 いえ、凝り性なだけです。B型の典型です。好き勝手やっていると家族からは言われています(笑)。好き勝手やるために会社を一生懸命に頑張っているのか、どちらが先か分からないですけれども(笑)。
− ご家族は?
河野 母と妻と3人の子どもです。長女、次女、長男です。長女が14歳、次女が8歳、長男が5歳です。B型と0型は性格が合うみたいですね。妻が0型です。子どもたちは全員B型なので、だいぶ妻はプープー言っています。うちの妻には「B型はもういい加減に勘弁してくれ」と言われています(笑)。
− ご家族の仲の良さが伝わってきますね。スポーツのはかに健康法などはありますか?
河野 いまは加圧トレーニングとボディフィックスという体幹を鍛えるジムに通っています。体の可動域を広げることと体幹を鍛えるということをやっています。ゴルフで飛距離を延ばしたいというきっかけで始めました。ジムには週2回なるべく行っています。インストラクターの指導のもと1時間つきっきりでトレーニングして、あとはボディフィックスという体の関節などを調節してくれるようなものをやります。実際には月に何回かになってしまいますが、教えてくれると何が大事だとか、いま体のバランスでどこが崩れているかだとかを教えてくれるので、健康に気を付けるようになります。
− ハードな仕事をこなしていくには健康が第−ですよね。昨年を振り返って特に思い出深い出来事はありますか
河野 やはり、天皇陛下が工場にご視察にいらっしゃったことでしょうか。一昨年「ものづくり日本大賞」の内閣総理大臣賞を頂いたことがきっかけで、経済産業省や中小企業庁の人達から推薦があり、うちの会社が視察の候補となったようです。
− 内閣総理大臣賞というのは、全国で何社ぐらいですか。
河野 5社です。
− 医療機器関係では1社だけですか。
河野 三鷹光器株式会社が同時に頂きました。実は三鷹光器株式会社と共同開発でシステムを作ったのです。三鷹さんは超微細手術用の顕微鏡を、当社は手術の器具を作っていました。
− 陛下がお見えになることについて戸惑ったりしたことはありますか。
河野 2カ月前にその話をいただいて、5目前までは社内では4名しか知らされていませんでした。身内を含め他言しないでくださいと言われてました。社内の4名だけが知っていて、その4名で準備しました。社内では、何をやっているのか、誰が来るのかという話になりました。中小企業庁長官はじめ、多くの方々が来社するのです。そのうちに県警などからも電話がかかってくると、社員は怪訝な顔をするわけです。「県警からお電話です」と(笑)。皆からおかしいと思われて大変でした。そういう意味では担当者の4人は非常に大変だっただろうと思います。しかし、やはり来られたときには地域の方々も非常に喜んでいただき、社員もものすごく喜んでいましたので良かったと思いました。終わった瞬間、緊張から解き放たれ、今年の仕事は今日で終わりというような感じでした(笑)。このような機会はなかなかないので、そういう機会を頂いただけでも常に光栄だと思います。いままでは大企業ばかりだったそうですが10年位前から日本の産業振興のためものづくりの中小企業をご視察されたいとのご希望があったようです。それで中小企業庁が主体となって企業を選んで、陛下が年に一回御視察されているそうです。陛下は、経営陣と話をするというよりは、製造現場の人たちに接しいろいろ心温まるお気遣いの言葉をかけていただきました。特に顕微鏡に大変興味を持っていらっしゃったようで、熱心にご覧になっていました。その姿に研究者気質を感じました。だいたい1時間ぐらいで工場を回られて、その後30分間、懇親会があるのです。懇親会の場所に社員14名を呼んでいて、一人ずつ陛下からいろいろなお言葉をかけていただきました。本当に日本の中小企業のものづくりの産業振興を考えていらっしゃるということが、そういうお話などをお伺いしていると分かりました。
− それは本当に勇気付けられますね。
河野 そうですね。会社としてもこういう機会をいただいたということで甚だ微力ながら世の中のためになっているのかなということを社員一同再認識できました。改めて医療の分野というのは非常に社会貢献度の高い業種だと思いました。今後、ますます日本のものづくり技術を世界に広めていかなければという固い決意のもとに、医療業界に貢献していきたいと思います。

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